TET

ブレイクスルーを起こせば、人生ごぼう抜き

sangetsuki

mental

やりたいことをやりきれない人は「山月記」を破れるほど読めばいい。


今も忘れられない「臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」という強烈なフレーズ。

僕が好きになる本というのは、その中で何か引っかかりのあるセンテンスであったり、脳裏にこびりついて離れない一節があることが多い。
内容はすっかり忘れていようともその「言葉」だけは覚えているから不思議なものです。

まあきっとその時琴線に触れたのは何かしら理由があるからだとは思うんですよね。
巡り合わせというか、読むべくして読んだというか、その時分はそれを読む「時期が来た」と。
だからこそ、本屋やamazonで目についたんでしょうしね。

で、そうなるとその中で目に止まったフレーズというのは、大切にしたい結晶のような存在に思えてくるのでまた不思議。

練りに練り上げられたフレーズというのはやっぱり気持ちいいんです。

「我輩は猫である」
「メロスは激怒した」

「サザエでございます」(←これはちょっと違うか)

世の中に残る名文というのは、ほんとに声に出して読みたくなるもんです。

さて、そんな名文が散りばめられていて、いちいち心の奥の方をチクチクしてくる。「山月記」はそんな作品な気がしています。
中島敦らしい格調高い名文。花鳥風月が緻密に描かれた情景の変化、そしてそれに伴う主人公の心境に移ろいが実に丁寧に描かれています。

一応山月記ってどんな話かと言いますと・・

捨てきれないプライドに悩んでいるあなたに
人はいかなる時に、人を捨てて畜生に成り下がるのか。中国の古典に想を得て、人間の心の深奥を描き出した「山月記」。
昭和初期に活躍したが惜しくも早世した小説家、中島敦の代表作とされる短編小説。1942(昭和17)年の「文學界」に、「文字渦」とともに「古譚」と総題して発表された。中国唐代の伝記「人虎伝」に基づき、詩に執心して、ついに虎に変身してしまった男のすさまじい宿命の姿を描いて、作者の自嘲と覚悟を語る作品。(出典:Amazon商品ページ)

超乱暴に言えば、博学才穎で財閥商社に勤めていたエリートが、「高知でブログ書くぜ!」的な感じで起業をするのだと息巻いて仕事をやめ、イタイツイートと、facebookにポエム投稿ばかりし、いつまでもうだつが上がらず、日を追うごとに生活が苦しくなった。数年の後、貧窮に堪えず「うぬらはレールの上を歩むだけだ」と歯牙にもかけなかった連中の元でアルバイトをするようになる。そしてとうとう狂ってしまい、

目が覚めた時には、、、、

身体が縮んでいた・・・!

奴らに正体がバレることを恐れた彼はとっさに

 

 

「江戸川コ◯ン!」

 

 

と名乗るというお話

はい嘘です。全くの嘘です。
身体が縮むというよりはむしろ四足歩行になって毛むくじゃらになって「隴西の李徴じゃ!」と叫ぶお話。

「やり場のない気持ちと外ばかり見てる俺」感がすごい。

世間一般的によく山月記の主人公に抱いている印象が「意識高い系で中二病」なイメージじゃないだろか。

それをまさに「意識高い系で中二病」現役まっしぐらな高校生の教科書の題材にする文科省もなかなか酷なことをするもんである。
(山月記をどういう意図で何を伝えたく採用したかは全く不明だ。)

でもまあ虎になるという超絶ファンタジーだからいいか。

とはいえ気になることはたくさんあるぞ中島敦よ

深みがあり、奥行きがある内容は共感は覚えつつも気になることはたくさんある。笑

・カフカの変身みたいだね
・でもなぜ「虎」なのか。カッコよすぎないか
・「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」でなく「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」なのが実は小粋
・李徴の漢詩は何がイケてなかったのか

など気になる箇所はたくさんある。笑

「人虎伝」を踏襲しているとは言いつつも、変身したのが虎ってちょっとカッコよすぎるよね。カフカの変身みたいに薄気味悪い毒虫ではなく、虎になってしまうのが李徴の虚栄心を考えると圧倒的小物感がやばい。白虎なら四神ですからね。

それからやはり「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」
凡人が言葉を紡ぐとすると「尊大」→「自尊心」と「臆病」→「羞恥心」という修飾関係で「尊大な自尊心と臆病な羞恥心」と言葉を結ぶところだが、それを「臆病」→「自尊心」「尊大」→「羞恥心」として「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」とするあたり天才的努力を感じる。

修飾語を置換しているこの行為だけで、どれだけこの言葉の深みが増していることか。
それでいて誰も気にせず、すんなりと読んでいて、意味も伝わっているだろうから職人技である。

すごくわかりにくたとえで恐縮ですが、スラスラ曲を書いていたというきらびやかなモーツァルトに対して、たった1音を10回以上書き換えて、それをひたすら積みあげていったベートーヴェンとするならば、敦は後者ですね。確実に。

そんなこんなで敦は毎回何かを教えてくれる

山月記。3年に1度は読んでいる気がする。そして毎回毎回とても切なく感じるようになって来ている

 

読むたびに違う箇所が気にかかるようになる、また一つ発見がある。

その時々で感じ取る印象が変わるし、連想する考えやイメージも変わるから不思議です。

さて猛省のお時間です、みなさん

しかし、その、人間にかえる数時間も、日を経るに従って次第に短くなって行く。 今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気が付いて見たら、己はどうして 以前、人間だったのかと考えていた。これは恐しいことだ。今少し経てば、己の中の人間の心は、獣としての習慣の 中にすっかり埋れて消えて了うだろう。

夢を追っていたはずがサラリーマンになっている方
肉親を無くしたことを忘れつつある方
もう恋なんてしないと息巻いていて恋をしている方

そしてその状態に違和感を感じなくなってしまっている方

ありとあらゆる属性の人がこの文を読んでドキッとさせられるのではないでしょうか。笑

一体、獣でも人間でも、もとは何か他のものだったんだろう。初めはそれを憶えている が、次第に忘れて了い、初めから今の形のものだったと思い込んでいるのではないか?いや、そんな事はどうでもいい。己の中の人間の心がすっかり消えて了えば、恐らく、その方が、己はしあわせになれるだろう。だのに、己の中の人間は、その事を、この上なく恐しく感じているのだ。

とはいえ一方で果たして虎になることは悪いのでしょうかね。

行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらずとするならば、基本は変わりゆくもの。というより河は流れ続けている訳で、「河」というものとしては一緒に見えても、そこに流れている水は違うとも言える。正しい意味での「諸行無常」ですね。

 

李徴曰く「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、 何事かを為すには余りに短い」らしい

人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。


己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。

さあさあ胸に手を当てて猛省してください、みなさん。

もう何かを語るより、本文をそのまま読んでいただいた方がいいでしょう。笑


人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短いなどと口先ばかりの警句を弄しながら、事実は、才能の不足を暴露するかも知れないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とが己の凡てだったのだ。己よりも遥かに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたがために、堂々たる詩家となった者が幾らでもいるのだ。

終盤、妻子を頼むと友に請うた李徴は、「この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、己の乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕とした」と嘆きます。
もう何でしょうね。自意識過剰で、承認欲求も強くて、それでいて劣等感もある。羞恥心と自嘲癖を合わせ持った虚栄のカタマリ。
 

 

で、ふと思う訳です。
 

 

 

 

あれ、でも李徴と俺一緒じゃね・・?と。

 

 

 

 

そう言えば、野村萬斎が「敦」と題して能狂言の技術、それから古典芸術の「型」や「様式」を存分に活かした感じで舞台をやってました。
芸術監督をやっている世田谷パブリックシアターで。

これがとんでもなく面白かったし、生まれて初めて見るような作品でした。
格調高い日本語を、朗々とした発声で時にコミカルにスピード感のある舞台として仕上げてました。

ただその日はすこぶる気分がすぐれなかったことが今でも悔やまれます。

 
萬斎さん、あと時の僕を哀れんでもう一度公演してくれないですかねぇ。
 

PC用アドセンス

PC用アドセンス

CATEGORIES & TAGS

mental,

Author: