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ブレイクスルーを起こせば、人生ごぼう抜き

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考察

音楽を聴くことと記憶について考えるーインプットとしての音楽とアウトプットとしての音楽ー

2014年8月19日


はじめに

「音楽」と「記憶」という漠然としたテーマを耳にしたとき様々な内容が喚起された。
非常に大きいテーマで、いろいろなアプローチが考えられそうだ。まずひとつに「インプット」と「アウトプット」といった区別もできる。ある音楽を耳にし、それが自分の中に残る―「経験」として聞いた音楽が「記憶」に変わるプロセス。逆に「記憶」を「音楽」に変えるプロセス―例えば、作曲家が曲を書く作業などもこれにあてはまるかもしれない。
こうした「音楽」→「記憶」、「記憶」→「音楽」の過程を改めて考えてみると面白いであろう。また、これにはあてはまらないが、かつてヒーリングブームが起きた際に話題になった「クラシック音楽で記憶力が上がる」といった現象もある。
本稿ではこうした、「音楽」と「記憶」といったキーワードから連想される様々な事象を捉え、あわよくば自分なりに解釈も付けられたらよいと考えている。

インプットとしての音楽

インプットという視点から音楽を考えると、音楽というのは実に不思議な存在であるように思える。

今日の日本に暮らしていれば好むと好まざるとにかかわらず種々雑多な音楽が耳に入ってくる。不思議というのは、受けて側の感情・イメージ・体調などによってその音楽自体の評価などが変わりうるところである。

例えば、どんな楽しい曲でもー意識的でないにしろー失恋直後に聞いていたら、恐らくはまたその曲耳にした際、とても悲しい気持ちになるということは往々にしてある。音楽の不思議な所は、それを初めて耳にした時の「情景」も一緒に記憶している点であり、再度その音楽を聞くとその「記憶としての状況」も同時に喚起される点にある。
これは誰しも経験あると思われる。例えば、鈴の音が入った曲を聞くとクリスマスを思い浮かべてしまうのもその一種であるかもしれないし、ゲレンデでよくかかるような曲は、やはり冬を連想させる力がある。私自身にもこうした経験はある。私は「子守唄」を聞くととても悲しい気持ちになる。これは短調であるとか旋法の問題もあるのかもしれないが、恐らくは自分が幼少期に大泣きしながらそれを耳にしていたので、その大泣きしていた感情がその「子守唄」の旋律と共に記憶されているからである。

つまり、「音楽」は純粋に音楽それ自体ではなくどうしても他の条件も内包するのではないか。ここでもう一つ私の思う事例を挙げてみたい。それは「映画音楽」である。例えば「E.Tのテーマ」を聞いた時、大抵のひとは自転車のカゴにE.Tを乗せ空に飛ぶあのシーンを連想するだろう。あるいはワルキューレの騎行を聞いて「地獄の黙示録」のヘリが飛んでくるシーンを思い浮かべるもあるかもしれない。音楽がそのシーンを想起させる、音楽を聞くとその映像もセットで頭に浮かべてしまうのは私だけではないはずだ。そしてその逆はほぼありえないのではないか。映像だけ見ても音楽は浮かんでこない。

アウトプットとしての音楽

アウトプットの音楽とは文字通り、自分の外に発するものとしての音楽である。作曲家が曲を生むとき、ミュージシャンが演奏するとき、はたまたふとした時に口ずさむ鼻歌も、音楽をアウトプットしているといえるはずだ。作曲家の江村哲二は茂木健一郎との共著『音楽を「考える」』において次のように述べている。

「私は作曲という創造的営みを行っているうちに、このような楽曲を書いている自分という存在が大変不思議に思えてきました。この楽想、このアイデアは一体どこから来るのだろう。その答えは簡単です。自分の脳内にある神経細胞からです。しかし、その網状の神経細胞からなぜそのようなことが起きるのか。なぜ音楽が頭の中に響き渡るのか、そもそも空気の振動としての音ではない、脳内にあるいわば仮想としての響きを聞いているとはー以下略ー」

この江村氏の言わんとしていることは、音楽ーあるいはそもそも音というのは空気の振動であり、空気が揺れることによって初めて音楽になる。であるとすると、頭の中に鳴っているものは果たして音楽なのかどうかという話である。これはいわば頭の中で「記憶」が鳴っているのではないかと私は考える。つまりー創造というものに対する冒涜かもしれないがー記憶の集合体ではないのだろうか。自分がどこかで聞いた音楽ー旋律や和声、リズムーや、自分が「良い音楽」として記憶しているそれぞれのその記憶の断片が、頭の中で次第にパズルのように整理されていくのではないか。そのように考えると、作曲という仰々しい行いだけでなく、誰もが簡単に鼻歌を口ずさめるのも頷ける。

 

終わりに

どんなジャンルであれ日頃慣れ親しんでいる音楽、その音楽が「記憶」という観点で見てみるだけでかなり違った角度から考えることができた。ある種の科学的なメカニズムとして分析できたのではないだろうか。最後にひとつだけ書いておきたいのはジョンケージの「4分33秒」である。あの曲こそまさにこのインプットとアウトプットのメカニズムを発揮する曲であるのではないか。もちろん、音を奏でるのではなく4分33秒間その空間の中の音(雑音や呼吸音、空気感)に耳を澄ませるという側面もあるが、聴衆(であり創造者である)にその「音楽」というもの自体を委ねているという点にこの曲の価値があるのではないか。それは「自分の脳内にある神経細胞」が記憶し、奏でてくる音楽であり、良いも悪いも個々に委ねられ、そこには芸術性とかいったお固いものはなく、「音」という原点に立ち戻れる。

このように考えても「音楽と記憶」とは奥深いテーマであり、これからもこの「記憶」というフィルターを介し様々な音楽を研究してみたい。

参考文献

『音楽を「考える」』 茂木健一郎2007.5 筑摩書房

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